中国よもやま話

中国よもやま話 113

― 中国食べ歩き ‐古鎮めぐり‐明光
 
 
 どこに行ってもいいとはいえ、一応仕事の隙間でウロウロしているのですから、帰りの飛行機は気になります。近い国とはいえ、乗り遅れて正規のチケットなどで帰国・・・。考えただけで恐ろしや、我が家の会長の美しいお顔が脳裏をよぎります。ですからあんまり変なとこにはハラハラするので行きたくはないのです。が、誘惑には卑しいのも事実です。
 
 さて、今回からの訪問地安徽省滁州(じょしゅう)市(し)(が管轄する)明光市周辺など正に縁が無ければ観光に行くような場所ではありません。けれども人の出会いは因果なもの。よく登場する朋友の斯海涛さんが色々な経緯で1年前からここに住み着いたことで、吸い寄せられるように来た訳です。入稿の〆切を過ぎ、サッパリ書けず夜な夜な散歩の末苦し紛れことですが、なまの中国人、斯さんのこと、出会いのことをチョコットよもやまってみます。
 
 斯さんは1967年㋄生ですから、今年49才。浙江省諸曁(しょき)市斯宅(しすうたく)村(むら)出身です。ここはチョー田舎。しかしこの諸曁という土地は学問で身を立てた人物が多く初代北京大学学長蔡元培の故郷でもあります。土地柄立身出世を夢見、斯宅の神童斯少年は村にある本は全て読みきったと豪語します。苦労の末大都会杭州にある名門杭州大学日本語科(現在は中国重点大学中3位とも言われる浙江大学に吸収)に合格。明るい将来を約束されたのです。
 ご存知の方もいらっしゃられると思いますが、中国では農民戸籍と都市戸籍があります。難しいことですからサラッといきますが、斯さんは元々農民戸籍。大学に入学したことで集団戸籍(都市戸籍の種類)に一時的に書き換えられました。当時の中国は農民戸籍の者がウロウロ他の地に行くことは基本的にできませんから、本当に「栄光への架け橋」に思えたとのことです。特権階級の大学生になれれば「肉なんか毎日食べられる」と斯宅では言われていたそうです。しかし現実はそう上手くいきません。当時の中国は食事なども配給制で、貴族階級の出でない斯さんは食べ物も少なく、栄養失調から1年の休学をせざるをえなくなるのです。しかしこの休学が彼の将来を大きく変えることになります。ご存知1989年の六四天安門事件です。休学が無ければ官僚の道も夢ではなかったかもしれませんが、天安門事件後の学生はゴミ同然の扱い。役人として職があるのは地方省庁の「諜報部」への話ばかりだったそうです。当時暗い部屋で1日中電磁波の出る機械で盗聴などしていると「脳がやられる」との噂もあり止めたとか。彼に残こされた道は日本語を使った仕事しか無く、縁あって旅行会社に仮雇で就職。持ち前の根性で「通訳先生」と呼ばれるようになっていったそうです。
 
 2008年4月川村龍洲先生が浙江省縦断の旅を企画され、書源社旅行として訪中しました。中国の旅行社との交渉等私が担当。訪問コースは極めて難解であったためとても不安でしたが、現地旅行社から「敏腕ガイドがいる」と紹介され現れたのが斯さんでした。彼の頑張りで旅行は大成功。ささいなことで道中私と大喧嘩する一幕もありましたが、なぜか赤い糸を感じました。翌年私は独立。ビジネスパートナーとして今日にいたります。が、好調に日本の食品を中国に輸入していた彼にまたも福島原発事故が災います。「もう日本からの食品は輸入できなくなる」と。あらゆる食品の中国輸入は凍結されてしまいました。それからの数年コーヒーショップやブティックをやっていましたが経営は全然上手くいきません(手伝いにも良く行きました)。私は面白い中国体験をしましたが、本当に彼は辛い日々だったことでしょう。長身で痩せの彼が私を見るたびに「中国では歳をとってからの痩せは金だぜ」笑って言っていましたが、きっと太れなかったのでしょう。
昨年「もう自営業止めて務める」と連絡があり「安徽省の田舎街。漁師する」と連絡があったときには冗談かと思いました。私は珍しく1年も訪中しなかったこともあり、今回強行な旅程でしたが訪問したのです。「8㎏太った。飯が美味いヨ~たべるわ」ですと。
「日本は戦後苦労して先進国になった。中国はその半分ぐらいの年月で急発展してきた。新幹線も高速道路も中国全土に開通させた。ほんの30年前は自分自身が栄養失調で死にかけてたのに今はこんな発展の中にいる」。彼と話していると私の全く知らない貧困で苦しかった時のことや、共産主義国の厳しさ等なまの生活感を知ることができます。そんな斯さんのことを今回書いてみようと思いました。
 
 よもやま話初、写真無のダラダラ駄文ですが、彼がいるからここが書けるということで、お許しください。